*************** 名歌鑑賞 *************** 


牡丹花は 咲き定まりて 静かなり 花の占めたる
位置のたしかさ
                 木下利玄 

(ぼたんかは さきさだまりて しずかなり はなの
 しめたる いちのたしかさ)

意味・・牡丹の花は満開にゆるぎなく咲き定まって静
    かである。そして、その花の占めている位置
    も、なんと確かなことか。

    大柄の牡丹の美しい花は、すぐに散る様子も
    なく、美しさを安心して楽しませてくれる。
    牡丹の植えられた場所柄もよく、静かで美人
    を想わせる確かさがある。「立てば芍薬座れ
    ば牡丹歩く姿は百合の花」といわれるように。

    参考として、「位置のたしかさ」について
    大師山 法楽寺 遠藤龍地住職の法話を下記に
    載せました。お暇の時に読んでください。

作者・・木下利玄=きのしたりげん。1886~1925。東
    大国文科卒。
 
出典・・歌集「一路」(笠間書院「和歌の解釈と鑑賞事
    典」)

参考です。

大師山 法楽寺 遠藤龍地住職の法話

大正12年(1923年)、木下利玄は詠んだ。

「牡丹花は 咲き定まりて 静かなり 花の占めたる
位置のたしかさ」

牡丹の花は華やかさと重量感で観る者を圧倒する。
花というものは、いったい、これ以上の咲きようがあ
ろうか、とも思わせる。
福寿草も、水仙も、梅も、桜も、同じく〈花〉であり、
それぞれが、完結した存在として咲く。
牡丹もまた、そうした意味では、まったくの横並びで
あるはずなのに、他の花々とはどこかが違う。
ヒマワリも、バラも、大きくて華やかだ。
しかし、牡丹は、どこか違う。

ずっとそんなふうに思っていたが、この句に出会い、
違いの理由がわかった。
そこに、そのように在る、というありようを決める要
素は色や形や高さや傾きなどさまざまだが、「位置」
という点において、牡丹は、一頭地をぬきんでている。

自分は気ままに歩きまわり、モノも心もすべてが変化
し続けている流動のこの世にあって、牡丹に出会うと
釘付けになるのは、そこでは空間があまりにも固定さ
れ、不動だからなのだ。

この句は、ただ、その真実一つだけを詠んでいる希有
な作品ではなかろうか。

「咲き定まりて静かなり」
もう、動きようがない、他に在りようがないから、寂
静(ジャクジョウ)である。その絶対的な在りようを、
他に取り替えようのない言葉で固定している。
「花の占めたる位置のたしかさ」
確かであるとしか言いようがないのである。

私たちは、よく「かけがえがない」と言う。
もはや「いのち」にかかる懸詞(カケコトバ)のよう
だ。
それはそうで一分のまちがいもないのだが、現代では
「おいしい」や「うつくしい」などと同じように、右
の耳から聞けばそのまま左の耳から出ていってしまい
かねない軽さを孕(はら)んでしまっている。
この原因は、もしかして、私たちからある種の〈確か
さ〉が失われつつあることに通じているのではなかろ
うか?
求め、急ぎ、いつも喘いでいる私たちは、いかなる
〈確かさ〉に支えられつつ無常のいのちを生きている
のだろう?

牡丹を眼にすると、眼も意識も、まるで虫ピンで留め
られたトンボのように固定され、眼のレンズはただち
にシャッターを切り網膜の裏へ光景を保存する。
浮薄な自分が、確かに位置を占めている牡丹に立ち止
まらせられるのは、重大事だ。
牡丹は異次元に通じている花である。
恐ろしくもあり、ありがたくもある。
強いて会いたいとも思わないが、会えば必ず胸で合掌
してしまう。
牡丹は不思議な花である。
 
どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。