名歌名句鑑賞

心に残る名言、名歌・名句鑑賞

2007年12月

初瀬山 夕越え暮れて 宿問へば 三輪の檜原に 
秋風ぞ吹く   
                禅性法師(ぜんしょうほうし)

(はつせやま ゆうごえくれて やどとえば みわのひばらに
 あきかぜぞふく)

意味・・初瀬山を夕方越えていくうちに日が暮れて、宿を
    探していると、三輪の檜原に秋風が吹くことだ。

    初瀬の長谷寺に参詣した道で詠んだ歌です。
    「夕方」、「檜原」、「秋風」とでわびしさ、心細
    さを深く表現しています。

 注・・三輪=奈良県桜井市穴師のあたり。
    檜原=檜(ひのき)の生えている原。

はつせ山 入相の鐘を きくたびに 昔の遠く なるぞ悲しき    
                  藤原有家(ふじわらありいえ)
(はつせやま いりあいのかねを きくたびに むかしのとおく
 なるぞかなしき)

意味・・初瀬山に響く夕暮れ時の鐘の音を聞くたびに、昔が
    遠ざかっていくように思われるのが悲しいことだ。
    
    詞書によると、有家の父が亡くなった後、「懐旧」
    という心を詠んだものです。
    「去るものは日々に疎(うと)し」(死んだ者は日が
    たつにつれて人々から忘れられていくという意味)
    というように、長谷寺の夕暮れを告げる鐘が鳴るの
    を聞くたびに、亡き父をいたむ気持が遠くに去って
    いくように感じられ、そのことが悲しいとことだと
    詠んだ歌です。

注・・はつせ山=奈良県桜井市初瀬町にある山、長谷寺がある。
   入相(いりあい)の鐘= 日没を告げる長谷寺の鐘。 
   なる=「遠くなる」と「鐘が鳴る」を掛けている。 

手を折りて うち数ふれば この秋も すでに半ばを
過ぎにけらしも           良寛

(てをおりて うちかぞうれば このあきも すでになかばを
 すぎにけらしも)

意味・・(病気になって、人の家にお世話になっていたが)指を
     折って数えて見ると今年の秋も、もう半分過ぎてしま
     ったようだ。(早く治って元気になりたいものだ)

     病気になって人のお世話になっている時に詠んだ歌
     です。

     --------------------------------------------
     もういくつ寝るとお正月・・・
     今年も、指折り数えると残り少なくなりました。

作者・・良寛=良寛。1758~1831。

出典・・谷川敏朗「良寛全歌集」。     

閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声    芭蕉

木枯らしや 岩に裂け行く 水の声   蕪村

(しづかさや いわにしみいる せみのこえ)
(こがらしや いわにさけゆく みずのこえ)

意味(芭蕉)・・あたりはひっそりと静まりかえっている。
       その静寂のうちに鳴き出した蝉の声に耳を
       傾けていると、澄み切った声は岩にしみ入
       るように感じられることだ。

意味(蕪村)・・岩にぶつかって裂けた水が木枯らしの中
       で叫び声をあげている。激しい水の音と木枯
       らしの風の音のすさまじいことだ。

 注・・木枯らし=晩秋から初冬にかけて吹く強い風。

憂かりける 人を初瀬の 山おろしよ はげしかれとは
祈らぬものを          
                                                                 源俊頼

(うかりける ひとをはつせの やまおろしよ はげしけれとは
 いのらぬものを)

意味・・つれなかった人をどうか私になびかせてくださいと
    初瀬の観音に祈ったのだが。初瀬山から吹き降ろす
    山風が激しく吹きすさぶように、ますます薄情にな
    れとはいのらなかったのに。

    ままならぬ恋を詠んだ歌です。
    つれない相手の心がなびくように初瀬の観音に祈った。
    しかし、その思いは通じるどころか、相手はいよいよ
    冷たくあたるようになったというのです。

 注・・憂し=まわりの状況が思うにまかせず、きもちが
        ふさいでいやになること。
    初瀬=奈良県にある地名。長谷寺の11面観音がある。
    やまおろし=山から吹きおろす冷たく激しい風。

作者・・源俊頼=みなもとのとしより。1055~1129。金葉和歌
    集の撰者。

出典・・千載和歌集・708、百人一首74。

霧たちて 雁ぞなくなる 片岡の 朝の原は もみぢしぬらむ
                       読人しらず
(きりたちて かりぞなくなる かたおかの あしたのはらは
 もみじしぬらむ)

意味・・空には霧が立ち込め、雁の鳴き声が聞こえて来る。
    秋も深くなったから片岡の朝(あした)の原の木々
    はきれいに紅葉したことであろう。

    晩秋の自然をとらえた歌です。

 注・・片岡=奈良県北葛城郡王寺町の一部。
    朝の原=場所不明。

草の戸も 住み替はる代ぞ ひなの家     
                     芭蕉

(くさのとも すみかわるよぞ ひなのいえ)

意味・・このみすぼらしい草庵も、人の住み替わる時が
    やって来た。新しく住む人は、世捨て人みたいな
    自分と違って弥生(三月)の節句には雛も飾ること
    であろう。こんな草庵でも移り替わりはあるものだ。
    
    旅立ちに際して芭蕉庵を人に譲った時に詠んだ句。
    
    方丈記の次の文を思わせます。

    「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水に
    あらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ
    結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の
    中にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし」

意味・・流れゆく河の水は、絶えることもなく、いつも変わ
    らず流れているように見えるものだが、それでは同
    じ水が流れているかというと、その流れる水はもと
    の水が今流れているのではない。流れの停滞してい
    る所に浮かぶ泡は、一方で消えたかと思うと、一方
    に浮かび出て、長いこと同じ状態のままでいるとい
    うことは、今までに例がない。世の中に存在する人
    間も、その住まいも、またちょうどこのようなもの
    である。

作者・・芭蕉=ばしょう。1644~1695。

出典・・奥の細道。




    

ほとどぎす 一声なきて 片岡の 杜の梢を 今ぞ過ぐるなる
                藤原為世(ふじわらためよ)
(ほとどぎす ひとこえなきて かたおかの もりのこずえを
 いまぞすぐるなる)

意味・・待っていたほとどぎすがやっと一声鳴いて、片岡の
    森の梢の上を、今飛び過ぎていく。

    下記の歌を念頭に詠んだ歌です。

時鳥 声待つほどは 片岡の 森の雫に 立ちや濡れまし
                 紫式部(むらさきしきぶ)
(ほとどぎす こえまつほどは かたおかの もりのしずくに
 たちやぬれまし)

意味・・ほとどぎすの鳴き声を待っている間は、片岡の森の
    朝露の雫に、立っていて濡れよう。 

    早朝、賀茂神社に参詣(さんけい)したおり、一緒に
    いた人が、「ほとどぎすが鳴いて欲しいものだ」と
    いったので詠んだ歌です。

注・・立ちや=「や」は疑問の助詞で「や・・まし」で
    ためらう気持を表わしている。

秋さらば 見つつ偲べと 妹が植えし やどのなでしこ
咲きにけるかも          
                  大伴家持

(あきさらば みつつしのべと いもがうえし やどのなでしこ
 さきにけるかも)

意味・・秋になったら、花を見ながらいつも私を偲んで
    下さいね、と妻が植えた庭のなでしこ、そのな
    でしこの花が咲きはじめた。

    亡くなった妻を偲んで詠んだ歌です。

 注・・妹=男性から女性を親しんでいう語。妻、恋人。
    やど=宿、屋敷内の庭。

作者・・大伴家持=おおとものやかもち。718~785。従
    三位中納言。大納言・大友旅人の子。

出典・・万葉集・464。
  
  

道のべの 清水流るる 柳陰 しばしとてこそ 
立ち止まりつれ             西行(さいぎょう)

(みちのべの しみずながるる やなぎかげ しばしとてこそ
 たちどまりつれ)

意味・・清水が流れている道のほとりに大きな柳の樹陰。
    ほんの少し休もうと立ち止まったのに、涼しさに
    つい長居をしてしまった。

    この柳のことを知って、芭蕉は次の句を詠んで
    います。

田一枚 植えて立ち去る 柳かな       芭蕉

(たいちまい うえてたちさる やなぎかな)

意味・・この柳のところで西行の昔をしのびながら休んで
    いると、いつのまにか前の田では早乙女がもう田
    を一枚植えてしまった。自分も意外に時を過ごし
    たのに驚いて、この柳の陰を立ち去ったことだ。

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