名歌名句鑑賞

心に残る名言、名歌・名句鑑賞

2009年01月

梢ふく 風の心は いかがせん したがふ花の 
恨めしもかな         西行(さいぎょう)

(こずえふく かぜのこころは いかがせん したがう
 はなの うらめしもかな)

意味・・梢を吹く風の心は、どうすることも出来は
    しない。でもその風の心のままに散ってゆ
    く花は何とも恨めしく思われることだ。

    無情の風が吹いて花を散らせてしまうのは
    仕方がないとしても、どうして花がそんな
    風の言うままに散ってしまうのかと、自分
    にとって好ましい花が時流に押し流されて
    手元から消えてしまうのを嘆いた歌です。    

 注・・いかがせん=「いかが」は反語を表す。
          どうしょうもない。

文もなく口上もなし粽五把  服部嵐雪(はっとりらんせつ)

(ふみもなく こうじょうもなし ちまきごわ)

意味・・端午の節句に知人から粽を五把届けられて来
    た。使いの者は手紙も持たず、挨拶の言葉も
    なく、ただだまってそれを置いて帰った。

    嵐雪がこの句を読む半世紀ほど昔、貞徳が歌
    人の木下長嘯子(ちょうしょうし)に五把の粽
    を贈った。その時に添えたのが次の歌です。

ちかきやま まがわぬすまい ききながら こととひはせず
はるはすぐせる    貞徳

(近くの山にわび住まいしておられると聞いていましたが、
 訪ねもせず今年の春も暮れようとしています。)

    この歌は折句になっていて、各句の頭と句尾を拾ってゆく
    と、「ちまきこわ(粽五把)」「まいらする」になります。

    長嘯子のお礼の歌です。

ちよふとも まだなおあかで きくべきは このおとづれや
はつほととぎす       木下長嘯子

(千年たっても飽くこともなく聞きたいのは、ほとどぎすの
 初音、つまり、あなたからの便りです)

 この歌も「ちまきこは」と「もてはやす」の折句になって
 います。

    嵐雪の句はこんな気の利いた歌を添えるでもなく、
    粽だけ置いていったというものです。

 注・・口上=口でのべること。
    粽(ちまき)=端午の節句(5月5日)に食べる
      餅の一つ。葛粉などで作った餅を笹など
      で巻いて蒸したもの。
    五把=粽を五個束ねたものが一把、戦前まで
      は10個束ねたものが一把であった。
      粽五把は50個。

みよしのの 山の白雪 踏み分けて 入りにし人の
おとづれもせぬ       壬生忠岑(みぶのただみね)

(みよしのの やまのしらゆき ふみわけて いりにし
 ひとの おとづれもせぬ)

意味・・俗世を逃れてみ吉野の山の白雪を踏み分けて入っ
    た人が、帰って来ないばかりでなく、便りもくれ
    ないとは、いったいどうしたわけなのだろうか。

    寒さの厳しい山で住む友を思いやる気持を詠んだ
    歌です。
    当時、次の歌のように、吉野山は、俗世を逃れ住
    む所でもあった。    

み吉野の 山のあなたに 宿もがな 世の憂き時の
かくれがにせむ

(吉野山の向こう側に住む家があればいいなあ、世の中が
 嫌になった時の隠れ家にしょう)

 注・・みよしの=吉野は奈良県南部の地、「み」は美称。
      ここでは、世を逃れる人の入る山。
    入りにし人=山に入って、そのまま出家した人。

思へただ 花の散りなん 木のもとに 何をかげにて
わが身住みなん           西行(さいぎょう)

(おもえただ はなのちりなん このもとに なにを
 かげにて わがみすみなん)

意味・・桜の花よ、お前が散ってしまったら、その木の
    下で今後何を頼りに自分は住もうか、もはや陰
    とたのむべき何物もないことを思ってどうか散
    らないで欲しい。

    花が散ってしまった後では自分はどんな木陰に
    住んでも心が休まることがない。すなわち時代
    が変わってしまって、昔の美意識や価値観のま
    ま取り残されてしまった、という自分の悲哀を
    詠んだ歌です。

 注・・花=「今まで被っている恩恵」を花にたとえて
      います。

そえにとて とすればかかり かくすれば あな言い知らず
あふさきるさに               読人知らず

(そえにとて とすればかかり かくすれば あないい
 しらず あうさきるさに)

意味・・それならこうしょうと思って、ああすればこう
    なる。こうすればああなる。ああ、なんと言えば
    いいのだ、一方がよければ一方が悪くなる。

    物事がうまく運ばないために、途方にくれている
    心を詠んだ歌です。

 注・・そえ=「え」は故、その故に。
    とすればかかり=ああすればこうなり。
    かくすれば=こうすればああなる。下に「とあり」
      が省略されている。
    あうさきるさに=行き違いの状態。帯びに短したす
      きに長しの状態。
     
    

眺むれば 月やはありし 月ならぬ 我身ぞもとの 
春に変れる        後鳥羽院(ごとばいん)

(ながむれば つきやはありし つきならぬ わがみぞもとの
 はるにかわれる)

意味・・眺めると月は以前の月ではないであろうか、
    いやいや昔のままの月である。ところが我
    身だけが以前の春とかわってしまっている
    ことだ。

    自分の境遇の変貌を詠嘆して詠んだ歌です。
    承久の乱(1221年)によって隠岐に配流
    されている。

 注・・やは=反語の意味を表す。・・であろうか、
       いや・・ではない。

    次の歌が本歌です。

月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ わが身ひとつは 
もとの身にして      在原業平(ありはらなりひら)

(つきやあらぬ はるやむかしの はるならぬ わがみひとつは
 もとのみにして)

意味・・この月は以前と同じ月ではないのか。春は去年の春と
    同じではないのか。私一人だけが昔のままであって、
    月や春やすべてのことが以前と違うように感じられる
    ことだ。

    しばらく振りに恋人の家に行ってみたところ、すっかり
    変わった周囲の光景(すでに結婚している様子)に接して
    落胆して詠んだ歌です。

山寺の 入相の鐘の 声ごとに 今日も暮れぬと 
聞くぞ悲しき           読人知らず

(やまでらの いりあいのかねの こえごとに けふも
 くれぬと きくぞかなしき)

意味・・山寺の晩鐘の音を聞くごとに、これで一日が
    終わってしまうと思うが、今日もまた一日が
    暮れたと思って鐘の音を聞くと、まことに悲
    しい気持がすることだ。

    充実したことをせずに、今日も終わってしま
    うことは悲しい、という気持を詠んだ歌です。

 注・・入相の鐘=日没時につく鐘。

あはれとも いふべき人は 思ほえで 身のいたづらに
なりぬべきかな      藤原伊尹(ふじわらのこれまさ)

(あわれとも いうべきひとは おもおえで みの
 いたづらに なりぬべきかな)

意味・・私が死んだ後で、かわいそうだと言ってくれそう
    な人は誰も思い浮かんでこない。そんな孤独な私
    はこのまま死んでしまうに違いありません。

    失恋の痛手に身も心も弱り果て、自分が死んだと
    しても、かわいそうだと悲しんでくれる人は誰も
    いない、死にたいなあという気持を詠んだ歌です。

 注・・おもほえで=「思ほえ」は思われる、思い浮かぶ、
      「で」は打ち消しの助詞、思い浮かばないで。
    身のいたづらに=「いたづら」はむだだの意、身
      をむだにすること、すなわち死ぬことをいう。
      

忘れ草 しげれる宿を 来て見れば 思ひのきより
生ふるなりけり      源俊頼(みなもとのとしより)

(わすれぐさ しげれるやどを きてみれば おもい
 のきより おうるなりけり)

意味・・あなたが私を忘れるという名の忘れ草が茂って
    いるあなたの宿を尋ねて来て見ると、あなたの
    「思い退き」という軒から生えているのだった。

    かっての恋人から忘れられるようになったが、
    気持が遠のいている事が確認できたので自分も
    諦めがついた、という事を詠んだ歌です。

 注・・忘れ草=萱草、忍草、恋人を忘れる比喩。
    思ひのき=思ひ退き(気持が遠ざかる)の意に
      軒を掛ける。

あせにける 今だにかかる 滝つ瀬の はやくぞ人は
見るべかりける      赤染衛門(あかぞめえもん)

(あせにける いまだにかかる たきつせの はやくぞ
 ひとは みるべかりける)

詞書・・大覚寺の滝を見て詠みました歌。

意味・・衰えてしまった今でさえ懸かっている滝を、
    (すっかりなくなってしまわないうちに)早く
    人は見ておいたほうがよいと思いますよ。

    大覚寺の滝が枯れたあと公任が詠んだ歌が
    があります。「滝の音は絶えて久しく・・」
    参考を参照してください。

 注・・あせにける=褪せにける、衰えてしまった。
    かかる=「懸かる」と「斯かる」の掛詞。
    滝つ瀬=急流の意。「はやく」の枕詞。

 参考です。

滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて
なほ聞こえけれ    藤原公任(ふじわらきんとう)

(たきのおとは たえてひさしく なりぬれど なこそ
 ながれて なおきこえけれ) 
    
意味・・滝の水の音は聞こえなくなってから長い年月
    がたってしまったけれども、その名声だけは
    流れ伝わって、今でもやはり聞こえてくる
    ことだ。

    詞書によれば京都嵯峨に大勢の人と遊覧した折、
    大覚寺で古い滝を見て詠んだ歌です。

 注・・名こそ流れて=「名」は名声、評判のこと。
       「こそ」は強調する言葉。
       名声は今日まで流れ伝わって、の意。
       後世この滝を「名古曾(なこそ)の滝」と
       呼ぶようになりました。

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