名歌名句鑑賞

心に残る名言、名歌・名句鑑賞

2010年03月

真菅生ふる 山田に水を まかすれば うれし顔にも
鳴くかはづかな         西行(さいぎょう)

(ますげおうる やまだにみずを まかすれば うれし
 かおにも なくかわずかな)

意味・・菅の生えている山田に水を引くと、いかにも
    嬉しそうにかわずが鳴くことだ。

 注・・真菅(ますげ)=「真」は美称。「菅」は水辺
     に生える草。
    まかすれば=「まかす」は水を引くこと。
    かはづ=蛙。

作者・・西行=1118~1190。佐藤義清。23歳で出家。

出典・・山家集・167。

わが宿の 桜はかひも なかりけり あるじからこそ
人も見にくれ       和泉式部(いずみしきぶ)

(わがやどの さくらはかいも なかりけり あるじ
 からこそ ひともみにくれ)

意味・・私の住まいの桜は美しく咲いても、何の咲き
    甲斐もないことです。家主の人柄によって人
    も見にくるのですから。

 注・・あるじからこそ=家主の人柄によって。魅力
     のある人によって。
    見にくれ=見に来れ。見るために来る。

作者・・和泉式部=生没年未詳。977年頃の生まれ。
     「和泉式部日記」など。

桜花 夢かうつつか 白雲の 絶えてつねなき
峰の春風      藤原家隆(ふじわらのいえたか)

(さくらばな ゆめかうつつか しらくもの たえて
 つねなき みねのはるかぜ)

意味・・桜の花と思って見たのは、夢であったのか、
    現実であったのか分からない。桜の花と思っ
    て見た白雲が、今は消え去って、ただ、無常
    を誘う峰の春風ばかりが吹いていることだ。

    世の無常を詠んだ本歌の心を、峰の春風に
    はかなく消えた桜の花の夢幻的世界で具体化
    した歌です。

    本歌は、
    「世の中は夢かうつつかうつつとも夢とも
    知らずありてなければ」(古今集)です。
     (意味は下記参照)

 注・・夢かうつつか=夢であったのか、現実であっ
     たのか。
    白雲=「白雲」の「白」に「知ら」を掛けて
     いる。
    つねなき=常無き。無常の。花が散るのは無
     常の姿である。
    無常=いつも変化していること。全ての物が
     生滅変転してとどまらないこと。

作者・・藤原家隆=1158~1237。非参議従二位。「新
     古今集」の撰者の一人。

本歌です。

世の中は 夢か現か 現とも 夢とも知らず 
ありてなければ            読人知らず

(よのなかは ゆめかうつつか うつつとも ゆめとも
 しらず ありてなければ)

意味・・この世の中の一切のものは、はかない夢なのか、
    確かな現実なのか。現実とも夢とも区別がつか
    ない。存在していて、同時に存在していないと
    思われるから。

    過去の苦しい思いは悪夢というように、過去の
    事はもう現在は実在しない、実在していたが今
    は夢という事もできる。    
  
    





なにごとを 春のかたみに おもはまし けふ白河の
花見ざりせば    伊賀少将(いがのしょうしょう)

(なにごとを はるのかたみに おもわまし きよう
 しらかわの はなみざりせば)

意味・・もし、今日白河で花見をしなかったら、何を
    もって過ぎ行く春のかたみと思いましょうか。
    かたみとなるものが無かったでしょう。白河
    の花見が、今年の春のよい思い出になりまし
    た。

 注・・春のかたみ=春の記念。「かたみ」は過ぎ去
     ったことの面影をしのばせるもの。
    思はまし=思うだろうか。「まし」はもし・・
     だったら・・だろう。

作者・・伊賀少将=生没年未詳。従五位藤原顕長(あき
     なが)の女(むすめ)。父の国名をとって伊賀
     少将と号する。

花ざかり 神もほとけも あちらむけ
            清水一瓢(しみずいっぴよう)

(はなざかり かみもほとけも あちらむけ)

意味・・仏に仕える身でありながら、花が咲けばその花に
    心を奪われ、朝夕の勤行も怠りがちになる。まま
    よ花盛りの間は、神も仏もあちらを向いて、自分
    の風狂を見逃してくれ。

    花月に心を奪われ、本業もおろそかになる自分を
    そのまま投げ出した句です。

作者・・清水一瓢=1770~1840。江戸谷中の本行寺の住職。
     一茶、成美と親交。

あらたまの 年をへつつも 青柳の 糸はいづれの 
春かたゆべき    坂上望城(さかのうえのもちき)

(あらたまの としをへつつも あおやぎの いとは
 いずれの はるかたゆべき)

意味・・糸というものは年が経てば切れるものだが
    多くの年を経ながらも、青柳の糸だけは、
    いつの春にも絶えそうにないことだ。

    「糸」は人との結びつきを暗示しています。

 注・・あらたまの=「年」「月」などに掛かる枕詞。
    いづれの春かたゆべき=いつの春に絶えるだ
     ろうか、絶えないことだ。「か」は反語の
     係助詞。「たゆ」は「絶ゆ」。「べき」は
     当然可能といった意味、そうなりうるはず
     である。

作者・・坂上望城=生没年未詳。十世紀前半の人。
     石見守・従五位。
     
出典・・後拾遺和歌集・74。
    

月やあらぬ 春や見し世の それながら 眺めしのみや
忘れ果つらむ             散逸物語

(つきやあらぬ はるやみしよの それながら ながめし
 のみや わすれはつらん)

意味・・月は以前見た時の月ではないのか、昔のままの
    月だ。春も以前に見た時のままの春であるのだ
    が、いっしょに眺めたことだけ、あなたはすっ
    かり忘れてしまったのですね。

    本歌は、
    「月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身一つは
    もとの身にして」です。(意味は下記参照)

 注・・散逸物語=散らばって今は無くなっている物語。

本歌です。

月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ わが身ひとつは 
もとの身にして     在原業平(ありはらなりひら)

(つきやあらぬ はるやむかしの はるならぬ わがみ
ひとつは もとのみにして)

意味・・この月は以前と同じ月ではないのか。春は去年
    の春と同じではないのか。私一人だけが昔のま
    まであって、月や春やすべてのことが以前と違
    うように感じられることだ。

    しばらく振りに恋人の家に行ってみたところ、
    すっかり変わった周囲の光景(すでに結婚して
    いる様子)に接して落胆して詠んだ歌です。

花見ると 家路におそく かへるかな 待ちどきすぐと
妹いふらん        平兼盛(たいらのかねもり)

(はなみると いえじにおそく かえるかな まちどき
 すぐと いもいうらん)

意味・・花を見ていて遅くなって家路に帰るのだが、
    さぞかし家では、「帰る予定の時刻が過ぎた
    のに・・」と妻が心配して言っているだろう
    なあ。

 注・・花見ると=花見をしていて。「と」は格助詞、
     「として」「と言って」「と思って」。
    待ちどき=待ち時。帰るはずの時刻として妻
     が待っている時間。
    妹=ここでは妻。

作者・・平兼盛=~990。父の代に平姓を名乗る。駿河
     守。三十六歌仙の一人。

     

花見てぞ 身のうきことも わすらるる 春はかぎりの 
なからましかば    藤原公経(ふじわらのきみつね)

(はなみてぞ みのうきことも わすらるる はるは
 かぎりの なからましかば)

意味・・花を見ることで我が身の憂さも自然と忘れ
    られる。花の咲く春という季節は終わりが
    なかったらよかろうになあ。

 注・・うき=憂き。つらいこと。せつないこと。
    かぎり=限り。限度、限界。

作者・・藤原公経=生没年未詳。少納言・従四位。

高砂の 尾の上の桜 咲きにけり 外山の霞 
立たずもあらなむ    大江匡房(おおえのまさふさ)

(たかさごの おのえのさくら さきにけり とやまの
 かすみ たたずもあらなん)

意味・・高い山の峰に桜が咲いたことだ。人里近い
    山の霞よ、桜が見えなくなるから立たない
    でほしい。

    はるかに望む山桜を賞美する心を詠んだ歌
    です。

 注・・高砂=山の意。
    尾の上=山の頂。
    外山=人里に近い低い山。

作者・・大江匡房(まさふさ)=1041~1111。当時の
     代表的な詩文家。

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