名歌名句鑑賞

心に残る名言、名歌・名句鑑賞

2010年07月

ありしにも あらで憂き世を わたるかな 名のみ昔の
真間の継橋        藤原良基(ふじわらのよしもと)
               (詠百首和歌・97)

(ありしにも あらでうきよを わたるかな なのみ
 むかしの ままのつぎはし)

意味・・過ぎた昔と違って、今はつらい人生を渡る
    ことだ。真間の継橋のように、名だけは昔
    のままに継いでいるが。

    幼少時代や摂政関白の時代を比較して述壊
    した歌です。

 注・・名=藤原一族の一流の名声。
    真間の継橋=下総国の歌枕。「継橋」は橋
     板を継ぎ渡した橋。真間は「昔のまま」
     を掛ける。

作者・・藤原良基=1320~1388。北朝の天皇に仕えて
     摂政関白を長期務める。北朝と南朝との
     戦乱の時代に生きる。

花いばら 故郷の路に 似たるかな  蕪村(ぶそん)
                   (蕪村句集・1176)

(はないばら こきょうのみちに にたるかな)

前書・・かの東皐にのぼれば

意味・・細い野路をたどって行くと、咲き乱れる野茨の
    芳香にいつしか包まれる。見覚えのあるこの路、
    そういえば幼い頃、これとそっくり同じ小路に
    遊んだことがあるような気がする。

    母の慈しみを抱き郷愁を詠んだ句で、次の三句
    が連句として詠まれています。

愁いつつ 岡にのぼれば 花いばら
(うれいつつ おかにのぼれば はないばら)

意味・・愁いを胸に秘めながら岡を登って行くと、そこ
    に野茨の可憐な白い花が咲いている。そのひっ
    そりした香りがやさしく私を包み込んでくれる。

前書きと三句を連記すると、

  かの東皐にのぼれば、
  花いばら故郷の路に似たるかな
  路たえて香にせまり咲くいばらかな
  愁いつつ岡にのぼれば花いばら

三句連作の意味・・かの陶淵明が故郷の田園に帰って
  東皐に登ったように、私もこの岡を登って行くと、
  野茨が芳香を漂わせて咲き乱れ、いつしか故郷の
  小路をたどっているような錯覚におそわれる。
  やがてその小路も絶えて、ひときわ強く野茨の香
  りが迫るように匂って来る。やるかたなき郷愁に
  耐えながら、私はなおも野茨の咲き乱れる岡を登
  って行く。

 注・・東皐(とうこう)=東の岡。陶淵明の「帰去来
     辞」の一節。
    愁いつつ=旅愁や郷愁など遠い眺望を持った
     愁いであり、桃源郷に遊ぶ心境。



朝ゆふに 思ふこころは 露なれや かからぬ花の
うへしなければ     良暹法師(りょうせんほうし)
              (後拾遺・330)

(あさゆうに おもうこころは つゆなれや かからぬ
 はなの うえしなければ)

意味・・朝に夕に野の花を思う私の心は、たとえていえば
    露であろうか。露のかからない花がないように、
    心の懸(か)からない花の上は一つもないので。

 注・・露なれや=露であるからであろうか。
    かからぬ=「心の懸からぬ」と「露のかからぬ」
     を掛ける。
    花のうへしなければ=花の上は一つもないので。
     「し」は強調の係助詞。

作者・・良暹法師=生没年未詳。1048年頃に活躍した歌僧。

我よりも まづしき人の 世にもあれば うばらからたち
ひまくぐるなり       上田秋成(うえだあきなり)
               (藤簍冊子・つづらぶみ)

(われよりも まずしきひとの よにもあれば うばら
 からたち ひまくぐるなり)

意味・・世の中にはこの自分より貧困な人もいるのだなあ。
    棘(とげ)のある茨や潅木の隙間をくぐってまで、
    我が庵に盗みに入るとは。

    物を盗られたという体験を、自分より貧しい人が
    いたという驚きに転化した歌です。

 注・・うばら=茨。とげのある木、野ばら。
    からたち=まつかぜ草科の落葉低木、とげがある
     ので生垣に用いる。
    ひま=隙。物と物とのすき間。

作者・・上田秋成=1734~1809。江戸時代後期の国学者。
     「雨月物語」の作者。




朝な朝な さくか苔路の 花よりも さかりはみゆる
庭のあさがほ           慶運(けいうん)
                  (慶運百首・41)

(あさなあさな さくかこけじの はなよりも さかりは
 みゆる にわのあさがお)

意味・・庭の朝顔は朝ごとに咲くせいか、はかないと
    されながらも、苔路に咲く花よりも生き生き
    として見える。

    朝開いて昼にはしぼむので、はかないとされ
    る朝顔だが、朝ごとに咲いている朝顔は清ら
    かで生き生きとして、見ていると気持がいい、
    と詠んだ歌です。

 注・・苔路=路地。

作者・・慶運=1293年頃の生まれ。1369年頃没。当時
     の和歌四天王の一人。「慶運百首」。


   

大井川 くだすいかだし 早き瀬に あかでや花の
影をすぐらん      兼好法師(けんこうほうし)
              (兼好法師家集・39)

(おおいがわ くだすいかだし はやきせに あかでや
 はなの かげをすぐらん)

意味・・大井川を川下に漕ぎくだす筏師は、早瀬の為に
    花を満足に楽しむこともなくて、その下を過ぎ
    ることであろう。

 注・・大井川=京都市右京区嵯峨の嵐山の裾を流れる
     川。花や紅葉の名所。
    あかで=飽かで。なごり惜しい、心残りで。

作者・・兼好法師=1283年頃の生まれ。70歳位。後二
     条院の六位蔵人を経て30歳頃出家。作品に
     「徒然草」・「兼好法師家集」など。

一葉さへ まだ散りあへぬ 木の本に 先うちそよぐ
荻のうはかぜ            玄旨(げんし)
                   (玄旨百首・38)

(ひとはさえ まだちりあえぬ このもとに まず
 うちそよぐ おぎのうわかぜ)

意味・・木の葉の散る気配はまだ感じられないが、
    木の本の荻の末葉が先ず秋の風にそよぎ
    はじめたことだ。

 注・・あへぬ=・・しきれない、・・できない。
    荻=イネ科の植物。薄(すすき)にそっくり。

作者・・玄旨=1534~1610。俗名は細川藤考。安土
     桃山時代の武士。古典学者。

世を憂しと 思ふばかりぞ かずならぬ 我が身も人に
かはらざりける       頓阿法師(とんあほうし)
                (頓阿法師詠・340)

(よをうしと おもうばかりぞ かずならぬ わがみも
 ひとに かわらざりける)

意味・・とるにたらない我が身は、何事も人並みでない
    はずなのに、世を憂い辛く思う事だけは、人と
    変わりがないことだ。

    世の辛さだけは人並みだと皮肉に自嘲した歌で
    す。

 注・・かずならぬ=数える価値がない、取るに足りな
     い。

作者・・頓阿法師=1289~1372。俗名は二階堂貞宗。
     当時、浄弁、兼好、慶運らと共に和歌の
     四天王と称された。

思ふこと など問ふ人の なかるらん 仰げば空に
月ぞさやけき            慈円(じえん)
                   (新古今集・1780)

(おもうこと などとうひとの なかるらん あおげば
 そらに つきぞさやけき)

意味・・自分の思い悩んでいることをどうしてたずねて
    くれる人がいないのであろうか。仰げば空に月
    のみがさやかに照り、慰めてくれるかの如くだ。

    苦悩を知ってくれる人がいない寂しさを詠んで
    います。

 注・・思ふこと=作者の思い嘆いていること。
    など=などか。どうして。

作者・・慈円=1225年没。71歳。大僧正。新古今集に西
     行についで多く入首。

暮れぬとは 思ふものから いつもただ おどろかできく
鐘の音かな          頓阿法師(とんあほうし)
                 (頓阿法師詠・306)

(くれぬとは おもうものから いつもただ おどろかで
 きく かねのおとかな)

意味・・鐘の音に、また一日が暮れたと思いながらも、
    いつもそれだけで、世の無常を聞き取ること
    もない。

    鐘の音を無常の告知として深刻に聞かないと
    自省した歌です。

    参考です。

    祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
    娑羅双樹の花の色、盛者必衰のことわり
    をあらはす。おごれる人も久しからず。
    ただ春の夢のごとし。たけき者もつひには
    滅びぬ。ひとへに風の前の塵に同じ。
    (平家物語・序) (意味は下記参照)

 注・・鐘の音=日暮れとともに、諸行無常を知らせ
     るもの。

作者・・頓阿法師=1289~1372。俗名は二階堂貞宗。
     当時、浄弁、兼好、慶運らと共に和歌の
     四天王と称された。

参考文の意味です。

祇園精舎という寺の音には、「諸行無常」(万物はたえ
ず変化してゆく)という道理を示す響きがあり、娑羅
双樹の花の色は、「盛んな者は必ず衰える」という理法
を表している。この鐘の声や花の色が示すとおり、おご
りたかぶっている者も、久しくその地位を保つことがで
きない。それはちょうど、さめやすい春の夢のようであ
る。勢いの盛んな者も、結局は滅びてしまう。それは、
全く、風前の塵のようなものである。

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