名歌名句鑑賞

心に残る名言、名歌・名句鑑賞

2012年10月

病むもよし病まば見るべし萩芒

                 吉川英治

(やむもよし やまばみるべし はぎすすき)

意味・・時には悩むことも仕方がない。しかし
    悩んだ時には萩や芒の柔軟な姿を見る
    ことだ。

    萩の枝は、箒にされるようにしなやか
    である。また芒は風に吹かれるままに
    靡(なび)く。このように萩や芒の姿の
    柔軟な様は尊いものである。
    悩んでいる時は一方的な考えになって
    いるので、萩や芒のように柔軟な考え
    になれれば悩みも軽減されると言って
    います。

 注・・病む=病気にかかる。悩む、心配する。
    萩=豆科の植物。花は豆のような蝶形の
     花。枝や葉は家畜の飼料や屋根ふき
     の材料にされ、葉を落とした枝は束
     ねて箒(ほうき)にされる。秋の七草。
    
作者・・吉川英治=よしかわえいじ。1892~1962。
     高等小学校中退。工員など転々と20
     余種も職を変える。その後懸賞小説
     に入選し、「鳴門秘帖」で作家の地
     位を確立する。    

出典・・村上護「今朝の一句」。


入相は 檜原の奥に 響きそめて 霧にこもれる
山ぞ暮れゆく
         足利尊氏 (風雅和歌集・664)

(いりあいは ひばらのおくに ひびきそめて きりに
 こもれる やまぞくれゆく)

意味・・夕暮れを告げる鐘は檜原の奥で鳴り始め、
    霧に包まれている山はいま暮れてゆく。

    夕霧に包まれた針葉樹林の奥から聞こえ
    る鐘の音は、深い寂しさを伴って響いて
    来る。
   
 注・・入相=夕暮れ、夕暮れに鳴る鐘。
    檜原=檜の茂った山。深い寂しさの情景
     を伴っている。

作者・・足利尊氏=あしかがたかうじ。1305~1358。
     室町幕府初代将軍。後醍醐天皇と争い
     光明天皇を擁立して北朝を立てる。
    

    

越えわびる 逢坂よりも 音に聞く 勿来をかたき
関と知らなむ
              道綱母 (蜻蛉日記)

(こえわびる おうさかよりも おとにきく なこそを
 かたき せきとしらなん)

意味・・あなたが越えにくいと嘆いている逢坂の関は、
    まだ名前だけでも逢うという言葉を持っていま
    すが、私の方は名前からして勿来といって来て
    くれるなというなかなか人を寄せ付けない、堅
    固な難関だと知ってください。

    藤原兼家(道長の父)の求婚歌の返歌です。結婚
    を断った歌になっているが、返歌を返す事は当
    時、結婚を承諾する事と同じであった。

    兼家の求婚歌です。
   「逢坂の関やなにより近けれど 越えわびぬれば
    嘆きてぞふる」 (意味は下記参照)

 注・・わびる=気落ちする、途方にくれる。・・しか
     ねる。
    逢坂=滋賀県大津市逢坂。昔ここに関があった。
     「逢う」を掛ける。
    音に聞く=うわさに聞く。「逢う」という事を
     聞いている。
    勿来の関=福島県勿来町にあった関。「な来そ
     」を掛ける。
    かたき=難き。「固き」を掛ける。
    
作者・・道綱母=みちつなのはは。936~995。藤原道長
     の父である兼家と結婚。「蜻蛉日記」の作者。

兼家の求婚歌です。

逢坂の 関やなにより 近けれど 越えわびぬれば
嘆きてぞふる
             藤原兼家 (蜻蛉日記)

意味・・人に逢うという名を持った逢坂の関は、一体
    何なのでしょう。すぐ目と鼻の近さにありな
    がら、まだ越え兼ねる、すなわちあなたに逢
    う事が出来ないので、嘆き暮らしています。

 注・・なにより=何より。どういうため。「より」
     は原因・理由を表す。・・のために。
    ふる=経る。月日がたつ。過ごす。

作者・・藤原兼家=ふじわらのかねいえ。929~990。
     従一位・摂政関白となり、子の道長、孫の
     頼通と続く藤原全盛時代を築く。


過ぎ去れば 昨日の遠し 今日もまた 夢の話と
なりぬべきかな
           与謝野晶子 (心の遠景)

(すぎされば きのうのとおし きょうもまた ゆめの
 はなしと なりぬべきかな)

意味・・過ぎ去ってしまうと昨日も遠い事のようです。
    そのように今日という日もまた夢の話のよう
    に遠くなってしまうのでしょう。

    かく過ぎ去って、昭和は遠くなる。

    参考です。

    村田英雄の唄った「明治は遠くなりにけり」
    です。
               丘 灯到夫 作詞
               船村徹   作曲

    想い悲しく 東海の
    磯に涙の啄木や
    熱き血潮に 柔肌の
    歌人晶子 いまは亡く
    ああ明治は 遠くなりにけり

    汽笛一声 新橋の
    屋根におぼろの 七日月
    月の光は 変らねど
    人生あはれ五十年
    ああ明治は 遠くなりにけり

    水の流れと 人の身の
    行方定めぬ 世の姿
    晴れの維新の 大業も
    足音絶えて 幾星霜
    ああ明治は 遠くなりにけり   

啄木の東海の歌
   「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて
   蟹とたはむる」

晶子の柔肌の歌
   「やは肌のあつき血汐にふれも見で さびし
   からずや道をとく君」

人生あはれ五十年の歌
   「人間五十年下天の内を比ぶれば 夢幻の
   如くなり」    

作者・・与謝野晶子=よさのあきこ。1878~1942。
     堺女学校卒。与謝野鉄幹と結婚。歌集「
     みだれ髪」「舞姫」。

人間五十年 下天の内を 比ぶれば 夢幻の
如くなり
          (織田信長) (幸若舞「敦盛」)

(にんげんごじゅうねん げてんのうちを くらぶれば
 ゆめまぼろしの ごとくなり)

意味・・人間の命はわずか五十年しかない。下天に
    比べれば、それは夢幻のように一瞬のはか
    ないものである。

    下天は人間世界の一つ上の天道で、一日が
    人間世界の80年とされる。

作者・・織田信長=おだのぶなが。1534~1582。
     本能寺で明智光秀に殺される。
     信長が好んで「敦盛」の言葉を口癖に
     していたので、信長と結びつけられて
     いる。


住吉の 松の木間より 眺むれば 月落ちかかる
淡路島山
              源頼政 (頼政集)

(すみよしの まつのこまより ながむれば つきおち
 かかる あわじしまやま)

意味・・住吉の浜辺にいて、松の木の間を通して海
    を眺めると、月が淡路島の島影に落ちかか
    っている。
 
    静けさの中に打ち寄せる波の音。砕けて見
    える白い波。その住吉の浜辺に生い茂る松
    林の木の間から、遠く海を眺めると、淡路
    島を月が影絵のように映し出している。
    しんみりとした夜の風情が感じられる。

 注・・住吉の松=大阪住吉の浜辺の松。松の名所。
     住吉は摂津国の歌枕。

作者・・源頼政=みなもとのよりまさ。1104~1180。
     従三位蔵人。家集「頼政集」。   


風のうへに ありかさだめぬ 塵の身は ゆくへも知らず
なりぬべらなり
          よみ人しらず (古今和歌集・989)

(かぜのうえに ありかさだめぬ ちりのみは ゆくえも
 しらず なりぬべらなり)

意味・・風に吹きあげられて、ありかも定まっていない
    塵のようなはかない私は、これから先どうなる
    か、行き着く所も分らぬものになってしまいそ
    うである。

    大学は出たけれど、定職についていないフリー
    ターの心もとない気持ち。また、上司にいじめ
    られて会社を辞めたいと悩んでいる人の気持ち。
    このような不安定な人の心を詠んでいます。

    裏返して見ると、たとえ過ちを犯していても、
    強(したた)かに生き抜く力が無くてはならない、
    と言っているみたい。     

 注・・風のうへにありかさだめぬ=風に吹き上げられて
     どこにどう落ちるか定まっていない。「ありか」
     は、いる所、住む所。
    塵の身=塵のようなはかない身。例えば、上司に
     いじめられて会社を辞める事を考えている身。


生死に かかはりあらぬ ことながら この十日ほど
心にかかる
                片山広子 (翡翠)

(いきしにに かかわりあらぬ ことながら このとおか
 ほど こころにかかる)

意味・・生死にかかわるような重大な事柄でもないのに、
    この十日あまりの間は、心が何かに押さえられ
    ているようで、ふと気がつくと、その事に心が
    とらわれているのだ。

    家族の病気や人間関係のつまづき、仕事の停滞
    などなどで、人の一生は懸念の連続であると言
    ってよい。考えて見るとそれは生死にかかわる
    ような重大事ではないのだが、何か晴れやらぬ
    思い、心の重い日々を過ごしてしまう、と詠ん
    だ歌です。

作者・・片山広子=かたやまひろこ。1878~1957。東洋
     英和女学校卒。佐々木信綱に師事。アイルラ
     ンド文学の翻訳者。歌集「翡翠」。


いつの世の ふもとの塵か 富士のねを 雪さへたかき
山となしけん
               阿仏尼 (十六夜日記)

(いつのよの ふもとのちりか ふじのねを ゆきさえ
 たかき やまとなしけん)

詞書・・富士の山を見て「古今集の序」の言葉を思い出
    されて。

意味・・いつの時代の麓の塵が積もり積もって、富士の
    山を雪まで頂く高山にしたのだろうか。

    古今和歌集の序の一節に、
    「遠い所も出発の第一歩より始まり、年月を経
    て到達し、高い山も麓のわずかな塵土が積もり
    重なって、ついに天雲がたなびくほど高く成長
    するように、歌もこのように発達を遂げたので
    ありましよう」とあります。

    白楽天の「千里も足下より始まり、高山も微塵
    より起こる」(何事も小さな積み重ねによって
    大きな成果が生まれる)を念頭にして詠んだ歌
    でもあります。

作者・・阿仏尼=あぶつに。1222頃~1283。夫は藤原
     為家(定家の子)。遺産相続争いで鎌倉幕府
     に訴訟のため、京から鎌倉の旅に出る。こ
     の紀行文が十六夜日記です。


雨露に うたるればこそ 楓葉の 錦をかざる
秋はありけれ
                沢庵宗膨

(あめつゆに うたるればこそ かえでばの にしきを
 かざる あきはありけれ)

意味・・雨や露にうたれるからこそ、秋ともなると楓が
    紅葉し、錦を飾ることとなる。
    人もまた同じ、逆境を経てこそ人は大成するの
    である。

作者・・沢庵宗膨=たくあんそうほう。1573~1646。
     臨済宗の僧。

出典・・木村山治朗「道歌教訓和歌辞典」。
 

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