名歌名句鑑賞

心に残る名言、名歌・名句鑑賞

2013年04月

玉藻刈る 敏馬を過ぎて 夏草の 野島が崎に
船近づきぬ
            柿本人麻呂 (万葉集・250)

(たまもかる みぬめをすぎて なつくさの のじま
 がさきに ふねちかづきぬ)

意味・・海藻を刈り取っている摂津の敏馬の辺の海を
    通り過ぎて、船はいよいよ夏草の生い茂って
    いる淡路の野島が崎に近づいた。

    船旅による旅情を詠んでいます。

 注・・玉藻刈る=敏馬の枕詞。
    敏馬(みぬめ)=神戸市の灘区の海岸。
    夏草の=野島の枕詞。
    野島が崎=淡路島の淡路町の崎。

作者・・柿本人麻呂=かきのもとのひとまろ。生没年
     未詳。710年ごろ没。万葉集の代表的歌人。




ながき世に まよふ闇路の いつさめて 夢を夢とも
思ひあわせん
                   藤原為子 

(ながきよに まようやみじの いつさめて ゆめを
 ゆめとも おもいあわせん)

意味・・暗闇をさまようようなこの世の煩悩もいつか
    覚め、その時には、夢は夢だと思いあたる事
    でしょう。

    煩悩はこの世における人間の持つさまざまな
    欲。人間はその持てるもののために迷い苦し
    むのである。
    為子は伏見院の中宮の永福門院に仕えた。当
    時は北条家の全盛。武家と皇室との対立の時
    代。皇室も南朝と北朝で対立していた。和歌
    の道でも、京極・二条・冷泉三家が対立する
    複雑な時代であった。見定め難い人の世に、
    醒めた眼で行く末を思い詠んだ歌です。

 注・・ながき世にまよふ闇路=「闇路」は心の迷い・
     煩悩・悩み。煩悩のために苦界を脱し得な
     い事。

作者・・藤原為子=生没年未詳。京極為兼の姉。伏見
     天皇の中宮・永福門院に仕える。「玉葉和
     歌集」の撰集に関与。

出典・・風雅和歌集・1909。

 

奥山の おどろが下も 踏み分けて 道ある世ぞと
人に知らせん
           後鳥羽院 (新古今・1633)

(おくやまの おどろがしたも ふみわけて みちある
 よぞと ひとにしらせん)

意味・・奥山の藪の中を踏み分けて行って、どのよう
    な所にも道がある世だと、人に知らせよう。

 注・・おどろ=茨など低木の茂るさま、藪。
    道ある世=「道があるよ」を掛ける。希望・
     楽しみのある道。

作者・・後鳥羽院=ごとばいん。1180~1239。1192年に
     源頼朝が鎌倉に幕府を開いた時の天皇。承久
     の乱で倒幕を企てて破れ、隠岐に流される。

夏草は 心のままに 茂りけり 我庵せむ
これのいおりに
               良寛 

(なつくさは こころのままに しげりけり われ
 いおりせん これのいおりに)

意味・・夏の草は思いのままに茂っている。この気兼
    ねない場所で、私はしばらくここで住んでみ
    よう。この粗末な建物に。

    新潟県・国上山中腹の五合庵を出て麓の乙子
    神社社務所に移った時に詠んだ歌です。良寛
    も年老いて山の上り下りが苦労に思われて移
    住したもの。
    建物は粗末でも、人に気兼ねなく思いのまま
    に暮らせるのを喜びとしています。

作者・・良寛=りょうかん。1758~1831。

出典・・良寛全歌集・529。

戦死せる 人の馴らしし 斑鳩の 声鳴く村に
吾は住みつく
            土屋文明 (山下水)

(せんしせる ひとのならしし いかるがの こえなく
 むらに われはすみつく)

意味・・戦死して今では亡き人が、飼いならした斑鳩
    が毎年やって来て鳴く山村に、私はやって来
    て今住みついている。

    戦死した青年は、善良な人がらだったのだろ
    う。その村の森や林に遊びに来る斑鳩を可愛
    がって撃つなと人々をいましめていた。自ら
    は餌などもまいて手なずけることに努力した
    のであろう。そのかいあって季節になると毎
    年その鳥がやって来て呼ぶように鳴くが、そ
    の青年は永遠に帰ってこない。ゆかりを求め
    てかろうじて住み着いた山村に、かく無心な
    る斑鳩の鳴く声を聞いて感慨に耐えられない。

 注・・人の馴らしし=飼いならした、手なずけた。
    斑鳩(いかるが)=すずめ科の灰色の鳥、山鳩。

作者・・土屋文明=つちやぶんめい。1890~1990。東
     大哲学科卒。明治大学教授。

灯影なき 部屋に我あり 父と母  壁のなかより
杖つきて出づ
            石川啄木 (一握の砂)

(ほかげなき へやにわれあり ちちとはは かべの
 なかより つえつきていず)

意味・・いつの間にか日は暮れ沈んでいたが、電灯も
    つけるのも忘れて物思いにふけっていた。す
    ると暗い壁面から年老いた両親が杖をついて
    出てくるような気がした。

    文学に志しているが、それでは家族を養う事
    が出来ない。まともな仕事にもありつけない
    ふがいない自分を見ていると、両親が心配し
    ている姿が浮かんでくる。

作者・・石川啄木=いしかわたくぼく。1886~1912。
     26歳。盛岡尋常中学を中退。与謝野夫妻に
     師事すべく上京。母校の代用教員、新聞校
     正係の職を転々とする。歌集「一握の砂」。
    

いちはつの 花咲きいでて 我目には 今年ばかりの
春ゆかんとす
             正岡子規 (竹の里歌)

(いちはつの はなさきいでて わがめには ことし
 ばかりの はるゆかんとす)

詞書・・しひて筆をとりて。

意味・・いちはつの花が咲き出して、病む自分の目に
    は今年だけに終わる春が今過ぎて行こうとし
    ている。

    不治の病の為に限られた命と感じて、再びと
    は逢いがたい「今年ばかりの春」だと嘆いた
    歌です・・が。
    「しひて筆をとりて」はいやいやながら無理
    に筆を取ったのではなく、限られた余命なの
    で出来る限り歌を詠もうと作歌行動にかられ、
    歌わずにいられなくて筆を取ったものです。

 注・・いちはつの花=一八の花。あやめ科の多年生
     草木。葉は剣状で、晩春4・5月に薄紫や白
     の花をつける。かきつばた・あやめ・菖蒲
     などとよく似た形である。
    我目には=「は」は特示の助詞。病に臥して
     いる自分には。
    今年ばかりの=来年の春までは生きられない
     生命と思う心がこめられている。

作者・・正岡子規=まさおかしき。1867~1902。35歳。
     東大国文科中退。結核で客血に苦しみ、脊
     髄カリエスで歩行困難になる。歌集「竹の
     里歌」。    
    

今日よりは 顧みなくて 大君の 醜の御楯と
出で立つわれは
            火長今奉部与曾布 
            
(きょうよりは かえりみなくて おおきみの しこの
 みたてと いでたつわれは)

意味・・今日からは家をも身をも顧みすることなく、大君
    の強い御楯となって、私は出立するのである。

    防人の歌です。大友家持に兵役の心構えを聞かれ
    て詠んだ歌です。
    火長というのは十人の兵士の長(兵士五人をもって
    一伍とし、二伍をもって一火とした)。部下をまと
    めて一心に任務に励む頼もしい兵士であろう。
    この歌の思想は、長くわが国の軍国主義精神、愛
    国心として国により推奨された。

 注・・顧みなく=一身上のことを考慮しない。
    醜(しこ)=頑強なこと。
    御楯=戦場で立てて敵の矢などを防ぐ武具。「御」
     は敬意の接頭語。

作者・・火長今奉部与曾布=かちょういままつりべのよそふ。
     生没年未詳。防人。

出典・・万葉集・4373。 


遠近の 鶯の音も のどかにて 花の咲き添ふ
宿の夕暮れ
         永福門院 
         (永福門院百番御自歌合・16)

(おちこちの うぐいすのねも のどかにて はなの
 さきそう やどのゆうぐれ)

意味・・鶯の声も増えてきて、あちらこちから、のど
    かな声が聞こえて来る。家のあたりは花もい
    ろいろ咲き始め、この春の夕暮れはいいもの
    だ。

    「花の咲き添ふ」は、何かの花の咲いている
    所に、他の花も咲いて、花が増えていく様子。
    桜に続き、山吹、そして山つつじというふう
    に。

作者・・永福門院=えいふくもんいん。1271~1342。
     伏見天皇の中宮(后と同じ意)。

    

越え行くも 苦しかりけり 命ありと また問はましや
小夜の中山
             後深草院二条 (とはずがたり)

(こえゆくも くるしかりけり いのちありと また
 とわましや さやのなかやま)

意味・・越えて行くのも苦しい小夜の中山です。もし命
    があるとしも、またここに来て越える事がある
    でしようか。あの西行のように、その歌のよう
    に。

    後深草院の寵愛を受けた二条は、また同時に他
    の男性達と関わりをもち、宮廷女性として華や
    かな、しかし悩み多い生活をした。30歳頃宮廷
    を出て尼姿になり、憧れていた旅と歌に生きた
    西行の生活を自らも送り、後にその愛欲と旅の
    半生の記録を「とはずがたり」に綴る。
    旅の途次、小夜の中山に至って、西行の「年た
    けてまた越ゆべしとおもひきや命なりけり小夜
    の中山」を思い出して詠んだ歌です。

 注・・小夜の中山=静岡県掛川市にある坂路。古く東
     海道が通じ、歌枕として有名。

作者・・後深草院二条=ごふかくさいんのにじょう。1258
     ~?。幼時より後深草院の許に育つ。恋愛に
     悩み、のち出家し諸国遍歴の旅に出る。半生
     の記録「とはずがたり」。

参考歌

年たけて また越ゆべしと おもひきや 命なりけり
小夜の中山
             西行 (新古今・987)

意味・・若かった日、小夜の中山を越えた折、年老いて
    再び越えることがあると思っただろうか。命が
    あるから今越えて行くのである。

    東大寺再建のため、砂金勧進を目的として、藤
    原秀衝(ひでひら)を平泉に訪ねた時の歌。
    「命なりけり」に求道の年月を経て今日に至っ
    た自分の命によせる、激しく、しかもしみじみ
    と深い思いが、よく表現されている。

このページのトップヘ