つけ捨てし 野火の烟りの あかあかと 見えゆく頃ぞ
山はかなしき
尾上柴舟
(つけすてし のびのけぶりの あかあかと みえゆく
ころぞ やまはかなしき)
意味・・つけ捨てられたままの野火の煙が、日の暮れる
につれて赤々と空を染め上げていく。その野火
の赤い煙を眺めていると、実に物悲しい気分に
なってくる。
誰がつけた火か、村の人が山焼きをしているの
に違いありません。その火は昼も夜も燃え続け、
遠くから見ていると、筋を引くように、あるい
は糸のように、ある時は少し幅もみせて、右
にも左にも燃え移って行きます。それをじっと
見ていいる作者には、いつしかいいしれぬ悲し
みが染み渡ってきます。
悲しみの理由は分りません。時がくれば、次の
準備を整えて行かねばならない人々の生活のけ
わしさを感じたのか、燃えつつやまぬ勢いの火
にも、いつかは消えてしまう時のあるのを思う
ためか、それとも、春を待つ心のしのびよって
くる頃の感傷によるものか、あるいはまた、大
きい山の自然に比べてそれにいどむ火に象徴さ
れた人の営みを小さくはかなく思う心のためか。
窪田空穂の批評は「自らを愛し、自らの完成を
願う心を持っている我々に、どうして悲しみが
なくていられよう。悲しみとは願いのまたの名
である」といっています。
燃えている野火を見、その煙のなびく方を見て
いると、その美しい赤い色の鮮やかさにもかか
わらず、なにがしの悲しさが心のうちにいっぱ
い広がり、心は山に引き寄せられるのです。
その悲しみは、空穂の言葉のように生きるため
の切実な願いと裏腹となっている.
注・・野火=春の初めなどに野山の枯れ草を焼く火。
作者・・尾上柴舟=おのえさいしゅう。1876~1957。
東大国文科卒。仮名書道の大家。
出典・・歌集「日記の端より」(湯浅竜起著「短歌鑑賞
十二ヶ月)。
山はかなしき
尾上柴舟
(つけすてし のびのけぶりの あかあかと みえゆく
ころぞ やまはかなしき)
意味・・つけ捨てられたままの野火の煙が、日の暮れる
につれて赤々と空を染め上げていく。その野火
の赤い煙を眺めていると、実に物悲しい気分に
なってくる。
誰がつけた火か、村の人が山焼きをしているの
に違いありません。その火は昼も夜も燃え続け、
遠くから見ていると、筋を引くように、あるい
は糸のように、ある時は少し幅もみせて、右
にも左にも燃え移って行きます。それをじっと
見ていいる作者には、いつしかいいしれぬ悲し
みが染み渡ってきます。
悲しみの理由は分りません。時がくれば、次の
準備を整えて行かねばならない人々の生活のけ
わしさを感じたのか、燃えつつやまぬ勢いの火
にも、いつかは消えてしまう時のあるのを思う
ためか、それとも、春を待つ心のしのびよって
くる頃の感傷によるものか、あるいはまた、大
きい山の自然に比べてそれにいどむ火に象徴さ
れた人の営みを小さくはかなく思う心のためか。
窪田空穂の批評は「自らを愛し、自らの完成を
願う心を持っている我々に、どうして悲しみが
なくていられよう。悲しみとは願いのまたの名
である」といっています。
燃えている野火を見、その煙のなびく方を見て
いると、その美しい赤い色の鮮やかさにもかか
わらず、なにがしの悲しさが心のうちにいっぱ
い広がり、心は山に引き寄せられるのです。
その悲しみは、空穂の言葉のように生きるため
の切実な願いと裏腹となっている.
注・・野火=春の初めなどに野山の枯れ草を焼く火。
作者・・尾上柴舟=おのえさいしゅう。1876~1957。
東大国文科卒。仮名書道の大家。
出典・・歌集「日記の端より」(湯浅竜起著「短歌鑑賞
十二ヶ月)。