名歌名句鑑賞

心に残る名言、名歌・名句鑑賞

2016年05月


*************** 名歌鑑賞 ****************

 
生まれては 死ぬことわりを 示すてふ 紗羅の木の花
うつくしきかも
                    天田愚庵 

(うまれては しぬことわりを しめすちょう しゃらの
 きのはな うつくしきかも)

意味・・朝咲いて夕べには散るという紗羅の木の花。これ
    は、生あるものは必ず滅するという道理を示して
    いるという。短い時間の間に力一杯花を咲かせて
    ている紗羅の木、この花はなんと美しくまたあわ
    れなことだろう。

    平家物語の序、参考です。

    祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
    紗羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。
    おこごれる人も久しからず。ただ春の夢のごとし。
    たけき者もつひには滅びぬ。ひとへに風の前の塵に
    同じ。・・・。

    祇園精舎という寺の鐘の音は、「諸行無常」(万物は
    たえず変化してゆく)という道理を示す響きがあり、
    紗羅双樹の花の色は、「盛んな者は必ず衰える」と
    いう理法を表している。この鐘の音や花の色が示す
    とおり、おごりたかぶっている者も、久しくその地
    位を保つ事が出来ない。それはちょうど、さめやす
    い春の夜の夢のようである。勢いの盛んな者も、結
    局は滅びてしまう。それは全く、たちまち吹き飛ば
    されてしまう風前の塵のようなものである。・・・。
   
 注・・紗羅の木=二葉柿科の大木。初夏に白い花をい
     っぱい咲かせる。花は朝咲いて一夜明ければ
     散っている。

作者・・天田愚庵=あまだぐあん。1854~1905。禅僧。
     清水次郎長の養子となる。
 
出典・・愚庵全集(前川佐美雄著「秀歌十二月」)


*************** 名歌鑑賞 ***************


行く春や鳥啼き魚の目は涙
                  芭蕉

(ゆくはるや とりなきうおの めはなみだ)

意味・・世はまさに春の終わり。鳥の鳴き声にも行く
    春を惜しむ情がこもり、涙するはずのない魚
    の目に涙がにじんでいるのも、春との別れの
    辛さかとみえる。鳥獣虫魚、山川草木、あげ
    て春との別れを惜しんでいる時に、心優しい
    あなた方との別れをかなしみつつ私は一筋の
    道に招かれて長旅に立つ。漂泊の身は空行く
    鳥と何の区別があろう。流れに身をまかせて
    いる魚とさしたる違いはない。啼く鳥、涙す
    る魚、それはこの自分であり、あなた方でも
    ある。ともに行く春を惜しみつつ相別れよう
    ではないか。

    1689年、奥の細道の旅立ちにさいして、見
    送りの人々に対しての留別吟です。
   「千住といふところに舟を上がれば、前途三千
    里の思ひ胸にふさがりて、幻の巷に離別の涙
    をそそぐ」と紀行されています。

 注・・行く春や=去り行く季節の哀歓と離別の悲し
     さとが二重写しになっている。
    留別吟=旅立つ者が後に残る者に贈る別れの
     句。この反対が餞別吟。
    千住=東京都足立区。

作者・・芭蕉=ばしょう。松尾芭蕉。1644~1694。

出典・・奥の細道。


*************** 名歌鑑賞 *************** 


牡丹花は 咲き定まりて 静かなり 花の占めたる
位置のたしかさ
                 木下利玄 

(ぼたんかは さきさだまりて しずかなり はなの
 しめたる いちのたしかさ)

意味・・牡丹の花は満開にゆるぎなく咲き定まって静
    かである。そして、その花の占めている位置
    も、なんと確かなことか。

    大柄の牡丹の美しい花は、すぐに散る様子も
    なく、美しさを安心して楽しませてくれる。
    牡丹の植えられた場所柄もよく、静かで美人
    を想わせる確かさがある。「立てば芍薬座れ
    ば牡丹歩く姿は百合の花」といわれるように。

    参考として、「位置のたしかさ」について
    大師山 法楽寺 遠藤龍地住職の法話を下記に
    載せました。お暇の時に読んでください。

作者・・木下利玄=きのしたりげん。1886~1925。東
    大国文科卒。
 
出典・・歌集「一路」(笠間書院「和歌の解釈と鑑賞事
    典」)

参考です。

大師山 法楽寺 遠藤龍地住職の法話

大正12年(1923年)、木下利玄は詠んだ。

「牡丹花は 咲き定まりて 静かなり 花の占めたる
位置のたしかさ」

牡丹の花は華やかさと重量感で観る者を圧倒する。
花というものは、いったい、これ以上の咲きようがあ
ろうか、とも思わせる。
福寿草も、水仙も、梅も、桜も、同じく〈花〉であり、
それぞれが、完結した存在として咲く。
牡丹もまた、そうした意味では、まったくの横並びで
あるはずなのに、他の花々とはどこかが違う。
ヒマワリも、バラも、大きくて華やかだ。
しかし、牡丹は、どこか違う。

ずっとそんなふうに思っていたが、この句に出会い、
違いの理由がわかった。
そこに、そのように在る、というありようを決める要
素は色や形や高さや傾きなどさまざまだが、「位置」
という点において、牡丹は、一頭地をぬきんでている。

自分は気ままに歩きまわり、モノも心もすべてが変化
し続けている流動のこの世にあって、牡丹に出会うと
釘付けになるのは、そこでは空間があまりにも固定さ
れ、不動だからなのだ。

この句は、ただ、その真実一つだけを詠んでいる希有
な作品ではなかろうか。

「咲き定まりて静かなり」
もう、動きようがない、他に在りようがないから、寂
静(ジャクジョウ)である。その絶対的な在りようを、
他に取り替えようのない言葉で固定している。
「花の占めたる位置のたしかさ」
確かであるとしか言いようがないのである。

私たちは、よく「かけがえがない」と言う。
もはや「いのち」にかかる懸詞(カケコトバ)のよう
だ。
それはそうで一分のまちがいもないのだが、現代では
「おいしい」や「うつくしい」などと同じように、右
の耳から聞けばそのまま左の耳から出ていってしまい
かねない軽さを孕(はら)んでしまっている。
この原因は、もしかして、私たちからある種の〈確か
さ〉が失われつつあることに通じているのではなかろ
うか?
求め、急ぎ、いつも喘いでいる私たちは、いかなる
〈確かさ〉に支えられつつ無常のいのちを生きている
のだろう?

牡丹を眼にすると、眼も意識も、まるで虫ピンで留め
られたトンボのように固定され、眼のレンズはただち
にシャッターを切り網膜の裏へ光景を保存する。
浮薄な自分が、確かに位置を占めている牡丹に立ち止
まらせられるのは、重大事だ。
牡丹は異次元に通じている花である。
恐ろしくもあり、ありがたくもある。
強いて会いたいとも思わないが、会えば必ず胸で合掌
してしまう。
牡丹は不思議な花である。
 
どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



***************** 名歌鑑賞 *************** 


稽古とは 一より習い 十を知り 十より返る
もとのその一
                 千利休 
           
(けいことは いちよりならい とおをしり とおより
 かえる もとのそのいち)

意味・・稽古というのは、先ず初めの一歩の基本的な部分から
    習い始めて、順番を追って最後の十まで行くものだ。
    そして、そこで終わりではなく、もう一度初めに戻っ
    て稽古しなおすのだ。すると、最初は気づかなかい事
    も分かるようになる。

    稽古とは、その道の基本を徹底的に学び、次に自分の
    色を出して見る、最後に自分だけの世界を作り上げて
    行く。ただし、一番最初の基本を忘れてはいけない。

作者・・千利休=せんのりきゅう。1522~1591。安土桃山時
    代の茶人。
 
出典・・利休百首。 


************** 名歌鑑賞 ****************


鶯に 夢さまされし 朝げかな  
                   良寛

(うぐいすに ゆめさまされし あさげかな)

意味・・短い春の夜は明けやすく、見続けていた夢も
    美しい鶯の声によって覚まされた。名残り惜
    しい夢ではあったが、鶯のさえずる夜明けは、
    まことに素晴らしいことだ。

 注・・朝げ=朝明け。夜明け。

作者・・良寛=りょうかん。1758~1831。新潟県出
    雲町に左門泰雄の長子として生まれる。幼名
    は栄蔵。

出典・・谷川敏朗著「良寛全句集」。


*************** 名歌鑑賞 **************

 
ながむべき 残りの春を かぞふれば 花とともにも
散る涙かな
                  俊恵法師

(ながむべき のこりのはるを かぞうれば はなと
 ともにも ちるなみだかな)

意味・・桜の花をしみじみと眺めることの出来る余生
    の春を数えると、散る花とともに落ち散る涙
    である。

    花のこの美しい風景が眺められるのは今だけ
    であり、季節や天候、時間によってその風情
    は刻々と変貌している。風景だけではなく、
    自分の容姿や気持ちも変わって行くので、再
    びこの場所に来て同じ風情は見られないだろ
    う。残りの春が少なくなった現在、この美し
    い風景をたんのうしてゆくが、もう見られな
    いと思うと哀しくなってくる。そして今を大
    切にと思うのである。

             花を眺める事の出来る、自分に残された春
    を数えると、花は身に沁みて哀れに感じら
    れ、落花とともに、こぼれる涙である。

    「残りの春」は桜の咲くのを、一年単位に
    見ての残りの年で、余命。死を意識する時、
    全ての物の存在は、面目を改めるという。
    この歌も、花の美しさが身に沁み、思わず
    涙がこぼれ落ちる涙であった事が知られる。
    我が命も惜しまれる境地である。

 注・・ながむべき=桜の花をしみじみと眺める事
     の出来る。
    残りの春=余生。

作者・・俊恵法師=しゅんえほうし。生没年未詳。
    表記の歌は1278年詠んだ歌。65歳くらい。
    東大寺の僧。
 
出典・・新古今・142。


****************** 名歌鑑賞 *****************

 
春のめだか 雛の足あと 山椒の実 それらのものの
一つか我が子
                 中城ふみ子 

(はるのめだか ひなのあしあと さんしょうのみ それらの
 ものの ひとつかわがこ)

意味・・ほんのり赤く身を染めた小さな春のめだかは、小さ
    いながら鋭く強い敏感な動きをみせて、水中に小気
    味よく元気さを発散させている。
    また、親鶏の後を懸命について歩き、見よう見まね
    で餌らしいものを見つけついばもうとするひよこの
    姿も、生まれてすぐ、自力で餌を得なければならな
    い厳しい定めを負ったけなげさを持っている。
    ひよわに見えてもぴりっとした力を持っている点で
    は、小さな山椒の実も同じだ。
    それらのものに並べて我が子を置くと、幼い命は可
    憐で頼りなげだが、弱いのではない。これからぐん
    ぐん伸びてゆく力を秘めたけなげな幼い命なのだ。

作者・・中城ふみ子=なかじょふみこ。1922~1954。31歳。
     東京家政学院卒。乳癌で亡くなる。
 
出典・・乳房喪失(馬場あき子著「歌の彩事記」)


*************** 名歌鑑賞 ****************


沖つ波 たかしの浜の 浜松の 名にこそ君を
待ちわたりつれ
               紀貫之
             
(おきつなみ たかしのはまの はままつの なにこそ
 きみを まちわたりつれ)

意味・・名高い高師の浜の浜辺に生えている松、その
    「まつ」という言葉のように、私はあなたを待ち
    続けてていたのですが、ついに会う機会にめぐま
    れずに残念です。

    旅先で友人が近くにやってきたのに、逢えな
    かったので詠んだ歌です。

 注・・沖つ波=沖の波は高いの意味で、高師の枕詞。
    たかしの浜=高師の浜。堺市高石あたりの海岸。

作者・・紀貫之=きのつらゆき。866~945。古今和歌集
    の中心的撰者。「仮名序」も執筆。「土佐日記」。

出典・・古今和歌集・915。


**************** 名歌鑑賞 ***************

 
都だに 寂しかりしを 雲はれぬ 吉野の奥の
五月雨のころ
                後醍醐天皇
           
(みやこだに さびしかりしを くもはれぬ よしのの
 おくの さみだれのころ)

意味・・五月雨の季節は都にいてさえも、陰鬱で寂しい
    思いがするのに、まして山里深く、雲が晴れる
    間もない吉野の奥にいる我が身には、いっそう
    侘(わび)しさが募るばかりだ。

    五月雨の陰鬱さを詠んでいるが、南北朝の対立、
    武家と朝廷との対立、そしてその後に都を追わ
    れた天皇の侘しい心を詠んでいます。

作者・・後醍醐天皇=ごだいごてんのう。1288~1339。
    96代の天皇(南朝)。北条氏(鎌倉幕府)を打倒し
    建武の新政を成立するが足利尊氏(室町幕府)に
    より吉野に追われた。
 
出典・・新葉和歌集・217。


**************** 名歌鑑賞 ****************

 
沖つ島 荒磯の玉藻 潮干満ち い隠り行かば 
思ほえむかも
                     山部赤人
          
(おきつしま ありそのたまも しおひみち いかくり
 ゆかば おもおえんかも)

意味・・沖の島の荒磯に生えている玉藻。潮干には人々
    がその玉藻を刈っているが、今に潮が満ちて来
    て荒磯が隠れてしまうなら、心残りがして、玉
    藻を恋しく思うだろうなあ。

    清らかな渚、風が吹くと白波が立ち騒ぐ美しい
    沖つ島。この沖つ島の玉藻に焦点を合せ、心残
    りを詠んでいます。

 注・・沖つ島=沖の島。
    荒磯(ありそ)=「あらいそ」の転で、岩のある
     海岸。
    玉藻=美しい藻。「玉」は美称の接頭語。
    潮干=潮の引いた所。
    い隠り行かば=(玉藻が水に)隠れ行ったならば。
     「い」は接頭語。
    思ほえんかも=(玉藻が)思われるであろうかなあ。
     「思ほえ」は「思はゆ」から転じた「思ほゆ」
     の未然形。「か」は疑問、「も」は詠嘆を表す
     係助詞。

作者・・山部赤人=やまべのあかひと。生没年未詳。奈良
    時代の宮廷歌人。

出典・・万葉集・919。

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