名歌名句鑑賞

心に残る名言、名歌・名句鑑賞

2016年05月


**************** 名歌鑑賞 *****************

 
我が恋は 行方も知らず 果てもなし 逢ふを限りと
思ふばかりぞ
                  凡河内躬恒
             
(わがこいは ゆくえもしらず はてもなし あうをかぎりと
 おもうばかりぞ)

意味・・私のこの恋愛は、どうなって行き、どう決着がするか
    も分らないが、逢うのを最上の喜びと思うだけです。

 注・・行方も知らず=成就するか不成功に終わるか分らない。
    果てもなし=終わりもない。

作者・・凡河内躬恒=おおしこうちのみつね。生没年未詳。
    921年淡路権掾(あわじごんのじょう)。古今和歌集の
    撰者の一人。
 
出典・・古今和歌集・611。


*************** 名歌鑑賞 ****************


めづらしき 声ならなくに 郭公 ここらの年を
飽かずもあるかな
                紀友則
            
(めずらしき こえならなくに ほととぎす ここらの
 としを あかずもあるかな)

意味・・毎年聞いているので、もはや珍重するには当たら
    ないほととぎすだが、それにしても、長年にわた
    って、よくもあきずに鳴いているものだ。

    (別解)
    毎年同じように聞くので、格別に珍しいというべ
    き声ではないのに、ほととぎすの声は、長年にわ
    たって聞いても聞き飽きないものだ。

    長年鳴き続けるほととぎす、それを長年聞き続け
    ることは長生きの印でありめでたい事だ、という
    気持も詠んでいます。

 注・・めづらしき・・=今年だけ聞く珍しい声ではない
     のに。
    郭公=ほとどぎす、時鳥、不如帰、子規とも書く。
    ここら=数多く、たくさん。

作者・・紀友則=きのとものり。905頃没。紀貫之の従兄弟。
    古今和歌集の撰者。
 
出典・・古今和歌集・359。



**************** 名歌鑑賞 ***************

 
あればなる なければならぬ すずの玉 むねに六じの
なくばとなへず
                   放牛

(あればなる なければならぬ すずのたま むねに
 ろくじの なくばとなえず)

意味・・鈴が鳴るというのは、手に持って振るからで
    ある。もし手元に鈴が無ければ、鈴を鳴らす
    事は出来ないのである。その事と同じように
    胸に六文字を持っていないと御利益の効果は
    無いのである。

     六文字とは、希望に向かう信念の事である。
   「あきらめない」「かならず勝つ」「希望大学
    合格」「マラソン完走」「夢よもう一度」など
    の夢・志を常に胸に秘めていなくては御利益
    の効果が薄いと詠んだ歌です。

 注・・六じ=「あきらめない」などの六文字。目標を
     達成したいという信念。
    となえず=唱えず。ここでは鈴が鳴らないの意。

作者・・放牛=ほうぎゅう。生没年未詳。1722年頃に
     地蔵菩薩の建立に活躍した僧。

出典・・インターネット「放牛地蔵」。


**************** 名歌鑑賞 ****************

 
素もぐりの 桶の一つに 春日さす  

                    作者 未詳

(すもぐりの おけのひとつに はるひさす)

意味・・海人(あま)が海に潜り貝類を採っている。採ったものは
    浮き上がって桶に入れる。何組かの桶が浮かんでいるが、
    雲の合間から春光が射してきた。見る目には気持の良い
    春日だが、海人にはまだまだ物足りないだろうなあ。



**************** 名歌鑑賞 **************** 


春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 
すずしかりけり
               道元
            
(はるははな なつほととぎす あきはつき ふゆゆき
 さえて すずしかりけり)

詞書・・本来の面目を詠ず。

意味・・自然は美しくて良いものだ。
    春は野や山に美しい花が咲いて、心がなぐさめ
    られる。夏には鳥が来てホトトギスもさえずり
    日々の暮らしに潤いをもたらしてくれる。秋は
    月を愛でながらしみじみと昔を想い出す。冬は
    雪が降ってもその冬景色は美しい。
    こういった事が自然の姿である。自然を大切に
    して子々孫々まで残し自然と共に生きて行きた
    いものだ。
    自然を痛めつけていてはホトトギスは来てくれ
    なくなる。豊かな自然を大切にして、季節の移
    り行く趣の深さを、心の支えとして生きて行こ
    うではないか。
 
    詞書の「本来の面目」とは自己の本来の姿、自
    己の実相のことで次の言葉の略です。

   「回向返照(えこうへんしょう)の退歩を学ぶべし、
    自然に心身堕落して、本来の面目現前せん」。
 
    意味は「前ばかり向いて歩かずに、時には立ち止
    まり後ずさりして、自然と同化し、仲良く自然と
    語り合う気持ちのゆとりを持ちなさい。そうすれ
    ば、身も心も抜け落ちたようになり、自然のもっ
    ている本来の実相までが見えてきますよ」。

      私たちはメガネをかけてものを見ているので、どう
    しても自分の都合のいいように、得になるように、
    という先入観が無意識のうちに働いて、そういう目
    で見るから本当の姿が見えない。自分の真実の姿を
    見つめる事の大切さを言っている。
 
       (下記に山田無文さんの解説文を載せました。長文
    なので時間が許す時に読んで下さい)

 注・・さえて=・・までも、・・でさえ。
    すずし=澄んで清い、さわやかである。
    本来の面目=自己の本来の姿、自己の実相。

作者・・道元=どうげん。1200~1253。道元禅師。曹洞宗
    の開祖。
 
出典・・建撕記・けんぜいき(松本章男著「道元の和歌」)
 
参考・山田無文さんの解説です。
 
1968年12月11日の新聞に、川端康成さんがスエーデンの
ストックホルム・アカデミーで、ノーベル文学賞受賞記念
講演をされたその全文が出ておりました。川端さんは道元
禅師の
春は花 夏ほととぎす 秋は月  冬雪さえて 冷(すず)
しかりけり

という歌と、明恵(みょうえ)上人の
雲を出でて 我にともなふ 冬の月  風や身にしむ雪や
冷めたき
 
という歌を冒頭に掲げて、わたしは人から字を書けと頼ま
れると、よくこの二首の歌を書きますということから話し
だされて、良寛和尚を語り、一休禅師を語り、西行法師を
語り、日本の茶道を語り、生け花を語り、庭園を語り、焼
き物を語り、さらに『源氏物語』から『枕草子』まで引き
出して"美しい日本の私"という話をされたのであります。
終始一貫、仏教の話ばかりのようでした。ということは、
仏教をとってのけて、日本に語るべき文化もないというこ
とであろうと思うのであります。

はじめの道元禅師の歌は、"本来の面目"という題で歌われた
ものでありますが、悟りくさいことは何もいわずに眼前の自
然を歌っておられるようであります。目前の自然がすべてそ
のまま道元禅師の本来の面目でありましょうか。禅師の心と
自然の間には一分の隔たりもない、そういう境地が道元禅師
の悟りであったろうと思うのです。

 川端さんはさらに良寛和尚の歌を引かれております。
 
 形見とて 何か残さん 春は花  山ほととぎす 
秋はもみぢ葉

道元禅師の焼き直しのようでもありますが、実は良寛の辞世
であります。良寛は死んで後に遺すものは何もありません。
春には花を夏にはほととぎすを、秋には満山の紅葉を遺して
おきますから、どうか良寛の遺品だと思って可愛がってやっ
てください、というわけでありましょう。

 自然がそのまま良寛であり、良寛がそのまま自然であったで
ありましょう。この不二の心境を体得することが仏法、こと
に禅というものだと思います。そしてそういう心の眼を最初
にお開きになったお方が釈迦牟尼世尊であらせられるのであ
ります。
 
この自然のすべてがそのまま"荘厳浄土"であり、一切衆生が
そのまま"仏"であると、はっきり認識される、すばらしい人
類最初の眼を釈尊がお開きになったのであります。

 暁の明星をごらんになって成道された瞬間、眼を転じて山を
見、川を見、森を見、花を見、小鳥をごらんになったとき、
釈尊は飛び立つほどの驚異と感激を覚えられたと思うのであ
ります。何とすばらしい美しい世界ではないか。光明国土、
一点の非の打ち所もないこの大自然の荘厳さよ!「一仏成道
観見法界、草木国土悉皆成仏」と思わず歓声を挙げられたこ
とであろう。「この世の中に美しくないものはひとつもない
もしもこれが見えないならば、見えないものの眼があかんの
だ」とロダンも言われたと聞く。一木一草、すべての美しさ
に心の眼を開くべきであります。

よく見れば首すじ赤きほたるかな

毎日見ている当たり前のことを芭蕉は幼な子のような驚異を
もって眺めたのです。なぜほたるの首は赤いのか、誰が赤く
染めたか。理屈はない。ただ、このままにその美しさに讃嘆
のことばをおくる以外にどうすることも出来ないであろう。

 馬をさえながむる雪の朝(あした)かな

白一面の雪景色の中に、まだ人の子一人通らない朝、馬が一
匹飛び出すと、「あ!馬だ、馬じゃないか、馬だ、足が四本
ある」と思わず眼を見張った句である。
 
 私どもはあまりにも常識にとらわれているために、心の眼が
つぶれておるんじゃないかと思うのであります。あまりにも
妄想が多いために驚かないのじゃないかと思うのです。しか
し芭蕉は見るもの聞くものいちいちに驚いたのです。その驚
きの生涯が芭蕉の俳句の世界であり、そこに禅があると思う
のです。

よく見ればなずな花咲く垣根かな

春ともなればみんな桜ばかり求めているが、芭蕉は垣根の下の
ペンペン草を見失わなかった。白いさびしい小さな花だが、
一杯咲いているじゃないか。この花はこの花でりっぱな使命を
持っているようだ。一木一草も見逃さず、見捨てるものは何一

つない。すべてが、そのまま光明に輝いている。そう分かるこ
とがこの世に生まれた人間にとって、最高の意義であり喜びで
はなかろうかと思うのであります。
 
 「奇なる哉、奇なる哉、一切衆生ことごとく皆如来の智慧徳相
を具有す」。奇なる哉、奇なる哉、と釈尊ほどの教養の高い方
が驚かれたのです。一切衆生ことごとく皆如来の智慧徳相を具
有す。いま自分が6年の苦行の暁ようやく悟ったこのすばらし
い境地は、実はもとからあったんだ。一切衆生がみんな生まれ
たときからもっているのだ。いまももっているのだ。と分かっ
たときの驚異はどんなにか大きかったかと思うのであります。

 「ただ妄想、執着あるがために証得せず」
ただいらざる分別、いらざる思いごとが多すぎるために気がつ
かないのだ。釈尊は成道の朝、こう叫ばれたのであります。
この世界に美しくないものは一つもない。美しくない人は一人
もいない、みんな仏になれる。こういう大歓喜を得させていた
だくことが仏法という宗教であります。


**************** 名歌鑑賞 ****************

 
最上川の 上空にして 残れるは いまだうつくしき
虹の断片
                斉藤茂吉

(もがみがわの じょうくうにして のこれるは いまだ
 うつくしき にじのだんぺん)

意味・・最上川の上空はるか彼方に残っているのは、消え
    そうになりながらもまだ美しい虹の一片だ。

    いやな思いが消えた後に、気持ちがすっきりして
    見た虹の美しさを詠んでいます。

    自分の行った行動によって、あの人は傷ついたの
    ではなかろうかと、良心の呵責でさいなまされて
    いる時、その人は笑顔を見せているので安心した。
    そして自分の気持ちがほぐされていった。
    そうした時、何もかも開放されて見入る川の流れ
    の清々しさ、最上川にかかった虹のなんと美しい
    ことか。虹を心ゆくまで、消えるまで見入ってい
    る。

作者・・斉藤茂吉=さいとうもきち。1882~1953。東大
    医科卒。精神病医。「アララギ」の創刊に参加。

出典・・歌集「虹」(小倉真理子著「斉藤茂吉」)


**************** 名歌鑑賞 *************** 

心あらむ 人にみせばや 津の国の 難波あたりの
春の景色を
               能因法師
           
(こころあらん ひとにみせばや つのくにの なにわ
 あたりの はるのけしきを)

意味・・情趣を理解するような人に見せたいものだ。
    この津の国の難波あたりの素晴しい春の景色を。

    心あらむ(好きな)人の来訪を間接的に促した歌
    です。

 注・・心あらむ=情趣や美を解する心のある人。

作者・・能因法師=のういんほうし。988~。中古三十
    六歌仙の一人。26歳で出家。
 
出典・・ 後拾遺和歌集・43。
 


*************** 名歌鑑賞 **************

 
かはづ鳴く 井出の山吹 散りにけり 花のさかりに
あはまし物を
                  詠み人しらず
               
(かわずなく いでのやまぶき ちりにけり はなの
 さかりに あわましものを)

意味・・河鹿が澄んだ声で鳴いている井出の山吹は、
    すでに散ってしまった。そうと分っていた
    ら、もっと早く来て花盛りを見たであろう
    に、花の盛りに会えないで残念な事である。

    今来て見ると山吹が散ってしまっている。
    そんなに早く散ると知っていたなら、もっ
    と早く来ればよかったのに。

 注・・かはず=河鹿、蛙。澄み切った声で鳴く。
    井出=京都府綴喜(つづき)郡井出町。蛙と
     山吹の名所として名高い。
 
出典・・古今和歌集・125。


*************** 名歌鑑賞 ****************


紫蘭咲いて いささか紅き 石の隈 目に見えて涼し
夏さりにけり
                   北原白秋
 
(しらんさいて いささかあかき いしのくま めにみえて
 すずし なつさりにけり)
 
意味・・ふと気が付くとシランの紅紫色の花が咲いていた。
    それがさんさんと輝く日に反射して庭石にうっすら
           と紅みがさしているように見える。それはいかに
    もさわやかで涼しげである。もう夏だなあ。
 
 注・・紫蘭=ラン科の多年草、初夏葉芯より花茎を出し
     て紅紫色の数花をつける。開花時期は、 4/15
      ~6/5頃。
    いささか=ほんのすこし。
    石の隈=石の奥まった所。庭石。
           涼し=澄んで清らか、さわやか。

    夏さりにけり=夏去りきにけり。「き・来」が省
     かれている。夏が去るの意ではなく来るの意。
     夏が来た。
 
作者・・北原白秋=きたはらはくしゅう。1885~1942。
    詩人。
 
出典・・歌集「雀の卵」。


**************** 名歌鑑賞 **************

 
奈古の海の 霞の間より ながむれば 入日を洗ふ
沖つ白波
                  藤原実定
 
(なこのうみの かすみのまより ながむれば いりひを
 あらう おきつしらなみ)

意味・・奈古の海にかかっている霞の隙間を通して眺
    めると沈もうとする太陽を、沖の白い波が洗
    っているように見える。

    霞が少しかかった沈もうとする太陽を望むと、
    絵画のような美しさを思う事が出来る。赤い
    大きな夕日を白い波が洗っている叙景は今日
    一日なし得た事が終わろうとする安らぎさを
    感じさせてくれる。

 注・・奈古の海=大阪市住吉区の海岸。富山県にも
     同じ名の海岸がある。

 作者・・藤原実定=ふじわらのさねさだ。1139~11
    91。正二位左大臣。定家の従弟。
 
出典・・新古今和歌集・35。

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