遠景の 桃花うるめり 家系図の 餓死てふ記述

簡明にして 
                武下奈々子

(えんけいの とうかうるめり かけいずの がしちょう
 きじゅつ かんめいにして)

意味・・ある日、蔵でも開けたのか、垢にまみれた家系図
    をまぶしい春光のなかに広げて見ている。遠く桃
    畑の花は潤んだように桃色にけぶり、田園は長閑
    な景色をなしている。平穏な、潤沢な、暮らしの
    ゆとりが、春の豊饒さを大地の香りとともに感じ
    させられる。ただ、古い家系図の中の古びた古筆
    の記載は、きびしく、鋭く、訴えるように、一人
    の人名の傍注に「餓死」という表現を残している。
    簡潔なその一語を取り巻く状況を想像するのはこ
    わい。「餓死」と記入することによって、後世を
    生きる者たちに伝えたかったことを考えれば、こ
    の簡明な記入の意志のかげにあった哀切な万感は
    胸に迫る。

    明るくうるむ遠景の桃花は、祖先たちの農に生き
    た現実を継いで、眼前の農村は変化に変化を重ね
    ている。古き日の忘却を誘いながら、かえって「
    餓死」のあった春を忘れがたく記憶にさせるに違
    いない。

 注・・うるめり=潤めり。潤っている。

作者・・武下奈々子=たけしたななこ。1952~ 。香川
    県生まれの歌人。

出典・・馬場あき子著「歌の彩事記」。